精神統一に必要な知識

脇長生

9. 精神統一実修者に不可欠な「反省」

   精神統一を実修しているにも関わらず、だんだんと「我が」強くなっていく人がいます。そのような人たちに対しては、「統一をやめてしまいなさい」と言いたい気持ちと、一方でやめてもらいたくないという気持ちが交錯します。そこで、彼らには、まず「なぜそうなったか」という反省をしてもらいたい。どこまでも自分に対して反省を深めてもらいたいのです。

   そこには自惚れ、あるいは増上慢というものがあるからです。あるいは、人を人とも思っていないで、「自分は偉いのだぞ」と、独りよがりで自分を評価している。しかし、それだけでもあればダメなのです。

   霊の世界とは厳しいものだと申しました。たとえば、お仕事に自信があって自慢をする。これも自惚れのうちに入るのですよ。仕事に対して自慢するほど上手くいくことは、地上で生活している間にはないかもしれない。それにもかかわらず自信たっぷりと吹聴している人がいる。客観的にみると、そのこと自体が「ウソ」なのです。自信たっぷりということはありえない。自信たっぷりだと思っていると、返って失敗るのです。人間としての完成というものはそんなに簡単にできることではありません。私は現在83歳ですが(注。当時の年齡)、いまに到るまで自信を持つことはできません。80年余生きているが、いつも反省しているのです。

   本来、自らの「自信」に関しては他人に断言することができるものではないのです。それにもかかわらず、「俺はもう偉いのだぞ、俺は認められているのだ。俺は・・・・」と言っても……その発言は「我」によるわけですが……それは永久にではなく、一時的なことなのです。失敗する人は必ず自惚れを持っている人です。必ずや自信たっぷりの人なのです。失敗はどこで現れるかというと、まずは仕事上で現れると同時に、健康面でも現れてきます。

   とにかく、私たちは常に自らを反省しなければならない。反省という言葉が適当でなければ、「本当の自分というものを正しくみよう」ということです。人間は客観的に自分自身の姿を完全に見ることができるかと言えば、むしろ絶対と言えるほど判らないのです。それにもかかわらず、本人は自信をもち、しかも他人に向かって自信たっぷりと、「俺は偉いぞ」という態度をとられる方がいるのです。

   自分のことが判るということであれば、こんなにありがたいことはありません。実際のところ。確かに良いものだけは、「チョッ、チョッ」と判るのです。しかし悪いものは判らないのです。得てして反対に行ってしまうのです。自惚れの強い方は、下積みになっても、上積みであるがごとく、都合の良い方ばかりを考える。けれども現実はそうではないのです。この発言は自信たっぷりの結果、自惚れの結果からというだけのことです。

   私たちが地上世界を歩んでいる。これは修業の過程のうち、まず第一の物質界と名付けられたところで歩んでいるわけです。いま生きている物質界は修業の世界であり、そこにおいて、いわゆる向上したの、成功したの、俺は偉いぞとか言うことはできないのです。

   「罪を隠す」という言葉がありますが、これも私たちは取るに足らないことだと思うのです。すなわち、罪を隠すと言うように、しっかりしていないところもあるのです。黙って偉そうな顔をして、人目には罪を隠し通している人もいるかもしれません。このように人間というものは外面だけから見ても判りませんよ。

   そこで申し上げたいことは、私たちは修業の世界にいる。修業しているということです。私たちは、いろいろな事柄にぶつかりながら、それらによって反省の材料が与えられていると言ってよいほどに、この世界は淡いものなのであります。

   それだからといって、山の中に一人で籠っても、返って効率よく修業ができないのです。それでも山の中に入れば、雨は降る、風は吹く。このように、私たちは万象の中に生きていて、万象から教えられ、かつ反省させられる。しかし、一番効率的な修業と言えるのは対人関係においてなのです。対人ということは、必ずしも社会人一般を指している訳ではありません。むしろ一家の夫婦や親子の関係が重要なのです。それは夫あるいは妻に教えられ、さらに子どもからも、それも赤ん坊からも教えられることが多いかも知れません。うぬぼれを持っていては教えられないのです。それを解決しないと、そこに一つの破たんが生まれることもあるわけです。

   私たちは修業の世界にいるということを忘れてはいけません。修業の世界は必ずや修業に関わる諸事象においていろいろな負担があり変化がある。善い人も悪い人もくる。けれどもそのことが自分に対する教えであり、反省の材料であるという点を理解すべきであると同時に、悪いことや悩みに苦しめられる時こそ、「ここから幸せが生まれるのだ」という気持ちを持って、この悩みを生かさなければいけない。あるいは失敗を生かさなければならない。このような気持ちでこの世界を歩むべきなのです。また、そういう意味で、いま地上はただ単なる地上としてあるのではない。修業の場としての地上があるのであって、そこで私たちは霊界へ行くための一つの素地を作るべく、その資格を得るために歩み続けているのです。

   われわれの死ぬとき、すなわち向こうの世界に移るときは、本当に平和な心持ちのままでありたい。なぜかといえば、そのような方の霊的向上は早いからです。ですから、憎しみあるいは不安な気持ちを持ち続けているような場合、その念を持ったまま向こうの世界へ引っ越しますと、その結果はどういうことになるか、お分かりですよね。

   とにかく死ぬということまでは話を持ち出さなくてもよかったかも知れません。要するに、今晩、何も考えずに愉快で楽しかった。「もういつ他界へ引っ越しても全然悔いない」という状態でおやすみください。とにかく、絶対に我があってはダメです。それどころかひたすら感謝あるのみですよ。おやすみになるときは、一家のものがお互いに感謝し合うことが必要です。本当に愉快な気持ちで、もうやるべきことはやった、何も残っていない。このまま神界へ行ってしまうような気持ちで、今日一日はありがたかったと握手して休むように努めることですね。

   このようにすると、悪夢に襲われることはない。ノイローゼにもならない。またこういう気持ちでいる場合に霊夢に接することになるのです。

   それだからといって、家人に感謝して握手をして寝た。「これは霊夢に違いあるまい」と早合点してもらっては困りますよ。

   本日は、精神統一の目的とその準備段階としての日常の心掛けの大切さについて概略をお話しました。

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