死後の世界……サマーランドに入る

[解説]

  ここに紹介するR.Grimes 女史の「臨終とその後の実体 The Fun of Dying」は過去数10年にわたる著名な科学者(注.いわゆる心霊研究者だけは限らず、当該研究に関与している人々)の業績を分析してまとめたもの(レヴュー)で非常に興味深い著述である。

  本著で詳説しているのは、死の関門を通過し、死後のまず全ての人が訪れる場所はサマーランドでの生活であり、そこは幽界の一隅で、そこでは地上での人生の反省と実績を確認し、そこからその人に相応しい(注.いわゆる魂の磨かれ方)幽界に移行し、次のステップへと研鑽することになる。

  これは諸家の心霊研究により、幽界の模様は、国や民族によってその世界の表現や分類は異なるが、基本的には共通したものである。

  例えば、日本的なものでは龍神、天狗、仙人などの登場する報告があるが、これらと同様の役割を果たしているのは、欧米ではいわゆる「天使」であるとさとれている。

  また、霊の世界の分類は欧米では7界層がほぼ受け入れられているが、わが国では幽界・霊界・亜神界・神界、またいずれにも必要に応じてそれぞれに亜界が付加して認められる。

  あの世が一体どういう世界で、なぜわれわれがそうした道を辿るのか、人間のかくあるべき姿を知ること、そして宗教と共通した部分と相違した部分が認められることなどにも、ここに取り上げた2章の翻訳を通して、ぜひご理解していただければ思っている。(訳者:春川栖仙)

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  人間は怪我や病気等によって亡くなることになるが、その多くは病院や幽界の家の静寂の中で目を覚さます。今私が思うに、幽界の歓迎の園から入っていく人はわれわれの半数にも満たないであろう。しかし、これらの園はその死によって実体というものを知るよい入り口となるが、それは、みなさんが死の全過程を目覚めたまま過ごしたとか、医学的援助を必要としなかったということで受け入れられよう。それ故道理にかなった良き地上生活を送ってきたみなさんは歓迎の園にたどり着いたのである。

幽界の入り口

  歓迎の園は死後の界層の中間に位置し、桁外れに大きい。何もかもが非物質的で、多事な地上生活を過ごしてきた人々にとっては広大で空虚のように思われる。しかし、ひとたび想念によって移動することに慣れると、どこへでも行きたいところへ直ちに旅することができる。

  最もよく描写されている英国および北米地域の歓迎の園は皆さんの想像通りのものである……木々やベンチのある片隅、公園の長い並木道、そして優雅な石造りの建物。鳥たちは歌い、音楽のようであるが、押し並べて全くの静寂である。そこでは車の音が聞こえないばかりではなく、心で聴いているので、人工的な音や耳に残るものなく、ましてやごく小さな音ですら爽やかで澄んでいる。花々の香は空中に漂い、全ての物は澄んだ白光にすっかり覆われている。

  新幽界人(帰幽したばかりの人)はこの場所の美しさと地上的なありさまによる飾らない安心感にびっくりさせられるが、もっとも驚かされることは、そこに行き渡っている愛と平和の雰囲気である。死後の生活、審判、煉獄あるいは永遠の喜びに満ちた生活の退屈さについていくら心配したところで、すべては速やかに雲散してしまう。みなさんは天国にいるのであり、そのことはお分かりであろう。みなさんは鳥の声や噴水の音に耳を傾ける。周囲の木々や花々について知るが、そのあるものはみなさんに馴染み深く、それ以外のものはこれまで地上に存在したことがないのである。素晴らしいことに、あらゆるもの、空気、純粋な白光それに石造りのような建物の素材でさえも生き生きとして見えるが、とりわけ注目すべきは見たところ意識を持つ植物たちである。

  この詳しいことはしばしば語られているところであり、その報告は非常に一貫しており、私がもっとも信頼するこの場所の事物もその一つである。ここでは花や木は不変である。葉は決して萎えることはなく、花も色褪せることないので、ひとたび庭が用意されると、誰かが植え替えるまではそのままである。また、驚くべきことに、それぞれの植物は愛情や自意識を有しているかのようである。それを想像してみてください!花々はみなさんが通りすぎるとその方へ振り返り、木々はその枝を垂らして愛撫する。植物は素晴らしい香気を発し、エネルギーを出して人々を育み、光を生み、調和した音楽はほとんどの人たちにとって筆舌に尽くし難い。喜びの衝撃、この全てがもたらすものは、一部の新幽界人にとって自分たちのいる歓迎の園にしばらく留まり、おそらくは歓迎してくれた人たちと共にベンチに座り、生存の事実を喜ぶという具合である。鳥はあなたの指に止まり、あるいはことによるとこども時代のペットが現れ、愛撫されようと膝に飛び乗ってくることであろう。

  歓迎の園に行った人たちの報告によると、遠くの方に人々がいたという。大方の人々は正規の様式の衣服である長い発光する外衣を着ている。しかし少数の人たちは明らかに服装規定のない時代の衣服を着ていた。

  みなさんが病院で、あるいは幽界の家の平和な静けさのなかで、あるいは旅をして歓迎の園で覚醒するかどうかはともかく、現在幽界に到着したところである。この天国はみなさんが想像していたよりももっと地上環境に近い。しかし、それでもなお大きな違いがある。すなわち馴染みのものと信じられないようなものとが同居しているのである。全てのものは愛のエネルギーでつくられ、ほとんどのものは幾らか意識を持っているようである。そして何物も決して朽ちることはなく、また決して夜が訪れることもなく、その全てにおいて不滅で時間を超越した美しさがある。

  時はここでは非常に異なって感じられるため、しばらくは何事も起こるようには思われないであろう。しかしあなたがたが到着するとまもなく二つの別種の体験をすることになる。すなわち大いに楽しむことと審判を受けることである。

死後の世界の地理学

  明らかになっていることに、死後の界層は大まかに7つあり、(もっとも通用する言葉である)「振動の速さ」によって分類され、それぞれの界層で、世界中の文化的規範に基づいた、無数の場所が含まれるようである。興味深いことに、外国の地で不慮の死を遂げた場合、その土地の死後の実体(幽界)に到達することになり、愛する人たちに来てもらって、自宅へ連れて帰ってもらおうと思うまではその場から頑として動かないようだ。

  もしみなさんに役立つような死後世界の図解でもあれば、あらゆる界層に同じような場所があることを思い起こすと、ジョージ・W・ミーク氏の「死後、一体どうなるのか」(1987年)という著書が簡明に記しており有用である。端的に言うと、最下層は、イエスが警告しているように、苦痛で苛まれている人々で溢れ、彼らは悪臭漂う不潔の中に長期にわたり生き長らえるよう宣告されている。最高級の界層は最高に霊的進歩を成し遂げた人々のための世界で無上の喜びの中で生活している。3界から5界は地上のように頑丈な天国があり、しばしばヴァイキングの言葉でいう「サマーランド」とよばれ、新幽界人は地上生活の影響から免れ、遊び、働き、学びの生活を享受できる。また当然の質問に対する回答としては、文化的差異はわれわれが第5界へ進歩することで徐々に解消され、第6界に至るまでに唯一の普遍的人間の実体となるようである。

地上生活の回想と審判

  一部の人たちは、臨死時に短時間、その後に公式のものと2回にわたって人生の回想を行う。言い伝えによると、差し迫った死の恐怖にあるときには、眼前に生前の来し方を見たという人たちの話が山ほどある。それらの多くは心からの人生の回想のようで、その中で死に直面した人たちが自分たちに影響された人々の視点から地上生活時代の出来事を感知することになる。しかし死に伴う公式の回想とは異なり、臨死時の回想は、通常は見て感じたものの解釈に指導がおこなわれない。臨死時に回想を行った人々はその経験がまたたく間に終わるとわれわれに話している。それでも彼らは人生のあらゆる出来事を目撃しており、人々が「線――時間」の思考に固執している観念は信じ難いもののように映っている。とは言っても、死後の視点からは時間はとても弾力的で、そうした「時間――圧縮」が容易に起こるとわれわれは理解している。

  臨死時の人生回想後、われわれの場合であれば、死および死後の行事がはじまり、あの美しい公園にいる一部の人たちにとってはその行事は終了となる。ある人たちはそこから直接公式の人生の回想へと向かうが、一方、その他の人たちに対しては新しい存在として始まるその先まで後回しとなる。ですから実際皆さんの人生の回想はしばらくは行われないようであるが、審判の日はとても漠然としているので、今のうちにそれをよく考えて片付けてしまいたい。

  われわれの死については他のあらゆるものと同様で、人生の回想と審判は各人に相応しく、またできる限り最善で最も実りある経験がなされるように取り決められているようである。一部の人たちに対しては、子ども時代の静寂な部屋で行われ、一人の思いやりのあるガイドが援助してくれる。一方、他の人たちには長老会の面前で公式の業務が事務的に行われる。北アメリカのサマーランドに行った人たちの一部は巨大な由緒深い石造りの建物の、壁や大きな中央の球体のようなものに向かって幾つもの長椅子がある静かな部屋で、人生の回想をするようだ。

  人生の回想の報告では通常そこには援助してくれる人たちがいるという。あるものは非常に高級な霊であり、またあるものは地上生活を終えたばかりの新幽界人を援助するガイドである。審判を受ける人たちにとっては彼らがいることで元気づけられ支えられているが、それは良いとして、人生の回想は痛烈な体験となる。

  そこに居合わせたことのある人々は、彼らの人生の回想は他の参加者それぞれの感情を個人的に体験することよりも自身におきた出来事の方が少なかったという。みなさんがこれまでにいじめたり、騙したり、悪い噂を立てたり、配偶者や子どもに腹を立てたことなど、それに生涯においてこれまで傷つけた他の全ての人たちに対して、自分たちがそれぞれの人々に感じさせたように自分たちも感じさせられるのである。幸いなことに、みなさんはまた、その全ての行動から良い結果を感じるであろうし、多くの人々は振り返って、生前他の人たちにもたらした喜びの体験が人生の回想をむしろすばらしいものにしたという。「振り返って」というのは、はじめにかれらがそれまでに行ってきたあらゆる害悪に対処し、自らを許すことができる場所へ行かなければならないからである。

  正確にはみなさんの人生の出来事が現れる場所はさまざまなようである。ある人たちはあの大きな中央の球体にそれらの出来事を見るといい、他の人たちはその出来事が自分たちのいる部屋でどうも起こるようだという。それは色々な方法で起こるが、われわれに忠告する者がわれわれにとって最良であるとの考え方によるようである。同様に、一部の幽界人は生まれた時からの人生を回想するが、他の多くの人たちでは、人生の回顧は死の時点から遡って行く。全ての体験はきわめて主観的である。しかしながらそうなると、それぞれの参加者の気持ちは、あたかもわれわれがその時点の彼らになりきっているかのように感じられている。

  これら公式の人生の回想はしばらく時間を要するようではあるが、重ねてそのしばらくとはここでは主観的なものである。われわれは周囲の人たちからの多くの意見をもらうことなく人生の回顧体験をさせられているが、もしわれわれが腹を立てることになれば、援助者たちは「あなたは当時勉強中であったのだ」とか「もっと良くなるでしょう」というような何かを言うようだ。われわれがした行為がごく詰まらない害悪であれば重要なことではなかったと言っているわけではない。事実、われわれが行為のあらゆることが、自分たちが認識している以上にもっともっと重要であったことを理解させられている。われわれの人生に関する基準は地上にいる間に思い描いていたよりもっと高度なものであること、だが、それにもかかわらずわれわれの現在の仕事はそれぞれの誤ちに対して自身を許すことであることを理解しなければならないようである。

  少数の幽界人ではあるが、自分たちの人生の回顧はやはり他人を許すということが要求されていたと述べているが、それは永遠の生命という観点からは容易であるように思われる。おそらくここでは地上での悪意はとるに足らないようであり、特に他の人々の観点から物事を感じ理解する新しい能力が与えられているのである。いかなる理由であれ、他人を許す必要性にまさに言及する報告が少ないのは、人生の回想をしている大抵の人たちが自らを許すことの必要性に対してとても困惑させられているからである。

  あなたがたは自身を許すことは難しい。人生の回顧を終えた人々は最悪の部分は大きな過ちを再現することではないと言っていた。……彼らはそれらに備えていた。最も困難であったことは幾度も残酷なことを言ったり行ったりしたこと、また幾度となく他の人たちに小さな親切を施す機会を見抜けかなったかを知ることであった。

  思い出深い子ども時代の寝室、あるいはあなたの周りにはあなたの心を読める長老たちがいる大きな石造りのホールにおいて、みなさんが現在考えているあらゆる弁解……他人の非難、自己弁護……は、どれも通用しない。そのかわりに、みなさんはとても深い感情に直面し、自身についてどんなつまらないことも理解し、それでいて、愛する神から許しを乞うように自らを許さなければならないのだ。

  ここには数10年にわたるこの研究から出された一つの素晴らしい洞察がある。すなわち神やいかなる宗教も決してみなさんの裁判官ではないことのようだ。その代わりにあなたがたが自分自身の裁判官である。イエスの福音をよく読むとこれを正式に認めているようであるが、多くのキリスト教徒たちは細部をずっと見落としているのである。おー、人生の回顧に関する幾つかの報告によると、地上の人間がごく小さな過誤として看做しているようなことについて討議を続けている長老会がある。しかし、それでさえも、体験した意味は人生において犯したいかなる害悪に直面してもわれわれを支援することであり、それによってわれわれ自身を完全に許す助けとなることである。

  もしわれわれがすぐに自身を許すことができないならば、カウンセリングやわれわれを学ばせる手助けし、またそこへ到達させる教室がある。そこで非常に多くの援助が利用できることで。これら多くの人たちはそれをサマーランド界層に用意して、結局は自己容赦を成し遂げているようである。それは良いことである。すなわち、許しはわれわれの振動数が上げ、それに対して許しができない場合は下がる。結局、もし過去の間違いをくよくよ考えつづけざるを得ないならば、より低級なレベル、外界の暗黒に向い、われわれが愛する人々から遠ざかったところに自身が漂っていることに気づくことであろう。

歓迎会とパーティ

  幽界入りの手続が上手く行ったある時点で歓迎会と言えるような催しがある。これらの行事はとても主観的で、生来社交的ではない人たちは数人の旧友と過ごそうとし、他方、パーティーが好きな人たちは居住者たちのパーティーに参加する。

  ほとんどの歓迎会は新幽界人にとって大切な場所で行われる。ある人は、彼らの気に入った地上の家で最後の模様を詳細に再現する。また他の人たちは、素晴らしいギリシャ寺院様式の建物の中か傍で、あるいはきらきらと発光ガラスでできている大きな公共の建物の中で行われる。

  幽界の家に関する話については非常に多くの報告があり、われわれはそれらについて取捨選択する必要がある。独身者や配偶者に先立って亡くなった人は通常子ども時代の家や以前に亡くなった友人や親類の家に行く。忠実な夫たちは妻好みの地上の家を食器や家具を含めて再現し、時には部分的に変更する。ある妻が不満に思った例では、夫が2人の愛の巣をとても上手く建てたものの、左右が反対の鏡面像の家をつくったことであった。また、別の夫人によると、彼女の夫は、自分が夫に生前にはつくらせなかった醜い増築をした家を建てたのだった。かつて私が読んだことのある、ホームレスとして幽界入りをしたある貧しい霊が関係する話に、彼にとっては居心地の悪く閉口するようなマンションが建てられていた。また、他の報告では、妻は、夫のために彼が生涯欲しがっていた素晴らしいヨットを誠意をもって用意した。われわれはどこであれ最初に選んだ家に住み続けることも、あるいは希望通りの引っ越しもできる。しかし引っ越す前には愛する霊界の仲間たちの訪問を受けることになる。

  私はこれを歓迎会とかパーティーと呼んでいるが、幽界人たちはこの言葉を滅多には使わない。多くの霊界人にとって、まさにその時こそ、彼らが知己を得ている人々の生活の転機なのである。それは死亡時の年齢の如何を問わず、現在彼らを迎えたほとんどの人たちが働き盛りのような姿をしていることを新幽界人は知って非常に驚かされる。また、地上時代に良い関係になかった人々ですら喜んで出迎えている。彼らは、「えっ!ここで再び一緒になったじゃないか。本当にすばらしいことだ!」と抱き合い、背を叩きながら、有頂天になって繰り返し再会を喜ぶ。時には食べ物が振る舞われる。また、時には音楽が奏でられ、特別な意味を持つ贈り物が渡される。会話はしばしば言葉で交わされるが、それは新幽界人が話し慣れているからで、しばらくこの世界(幽界)にいて使い慣れるともっと優れているテレパシー交信法を身につけることになる。

  われわれの審判や歓迎会から幽界の生活が始まる。ここから存在を築き上げるために進むが、それはいくつかのクラスをとり、技能を学び、コンサートも出席し、読書、スポーツをし、地上や死後世界の最下層の人たちを支援し救出さえもおこない、さらにわれわれが去った世界よりさらに大きくかつ変化に富んでいるもっと大きな実体を巡るなどいくつかの組み合わせを含める。ここはわれわれにとって永遠に学ぶところであって、音楽や芸術や地上の歴史のクラスから進歩した愛と許しのクラスへと、さらに信じることの素晴らしさと難しさの双方に見出す精神の創造のクラスさえもある。ここには残してきた地上生活、そしてうつ病の義理の母が私に、……「素晴らしい、あなたにはお金が必要ありませんよ」と語ったように、それ以上にここでは為すべきことがもっと沢山あるのである。

子どもたちの場合はどうか

  亡くなった子どもはここで絶対愛の雰囲気に包まれ、地上でいう数年のうちに生長する。それは子どものうちに死ななかった人たちにとっては少しばかり嫉妬したいくらいであるという。この世界に親しい親戚がいる子どもたちは祖母や伯母によってその家で養育されるが、大抵の子どもは天使とでも言えるような人に出迎えられ、成人たちの場所から少し離れたところにある特別な家や村で養育される。流産や堕胎された胎児でさえここで育てられたのちに両親と会わせてくれるという証言がある。これらの子どもを育てるということは特別な仕事で、極めて献身的になされる。子どもを失った両親は彼らが安全で幸せであることを知るべきで、青年となって愛に身をふるわせて彼らを喜んで迎えようと待ちわびているのだ。

死とは間違いなく素晴らしい

  われわれは死に関連した証言を研究すればするほど、死とそれに続くより素晴らしい生活を楽しむべきことが一層明らかとなる。その楽しみは必ずしも間違いではない。その代わりに、その楽しみは、不滅で強力な神がそれぞれの子どもに愛情のこもった冒険計画を立て、われわれ各人に設定しているようである。また、その体験を享受できないとすれば、偏に自らの生前に身につけていたわがままのせいであろう。

過去の研究会記録

 
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